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コラム・雑談など

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SONY(ソニー)

イブカ・メソード「人づくり経営」

ソニーの創業者の井深大は、大学時代科学部で友人たちと発明に興じ、巨大スピーカーや光電話を発明、学生発明家として知られた。

友達に夢を語り、同調すると試作を提案、仲間を生かしてモノを作るのが上手であった。卒業するとP C Lに入社、映画フィルムに音声を吹き込む(トーキー)技師となった。

社長の植村泰三の自由闊達を勧める指導が将来の経営に影響を与えた。植村はその後東宝映画の初代社長に就任している。

36歳で終戦を迎えた井深は共同経営の日本測器を廃業し、部下数名と急ぎ上京し、翌年の1946年5月に東京通信工業(後のソニー)を設立、文字通り日本のベンチャーの第一号になった。その方針は、あえて予測の不安定な民生品開発に挑み、発想を妨げるあらゆる人為的規制を廃し、社員が一人残らず出社を楽しむ理想郷づくりであった。

社員は共に夢を語り、井深のつぶやきに感応した社員が開発に挑む。社会的意義と、自分の技術的興味が合致すると驚くべき力を発揮すると井深は語る。任された社員は、やると決めたら、完遂することが求められ、奈落のような問題に面した場合、論理を超えた行動で、猛獣のように解決した時、一皮むけたヒーローに変身した。このようにして社内ヒーローを多く輩出した。

テープレコーダー、トランジスタラジオ、トリニトロンカラーテレビなどは、まさに猛獣力で世界一の座を獲得した。社員の「情熱」は、製品に移り、顧客の「感動」になり、それが社会の「繁栄」になる。

井深の経営法は、モノづくりは目的ではなく、手段であり、目的は「人づくり」であった。しかし、結果的には巨大な利益をもたらした。この心は生涯に渡り、ソニーは人づくりの実践工場で、一線を離れた後の井深は、幼児教育に没頭、「幼稚園では遅すぎる」「0歳児からの母親作戦」などの本を著した。

人間の能力の飽くなき追求で、社内には「超能力研究所」「脈診研究所」など私設研究所を設けた。一切の差別をしない、大自然のような心の井深を、文化勲章では「高潔なる技術の人」として称えた。井深の下に集まった社員は自らの専門も捨て、井深の心に身を投じた。物理学の講師までした盛田昭夫は販売に転じ、前例がないため当初売れない製品を普及にまで結び付けた。

やがて盛田は、世界一の交渉上手と呼ばれ、ソニーを世界ブランドにまで導いた。転業のたびに供をした技術者の樋口晃は総務に転じ、創業当時は、中途面接は樋口一人でこなすなど、井深と一心同体の陰を貫いた。

コンピューターは将来人間の能力を超えると読み切っていた井深の晩年の叫びは「人類に残された唯一の特権は『創造』である」と断じ、「モノと心は表裏一体である」と諭した。D Xやロボット時代と呼ばれる時代に、人類が改めて注視すべきは「人の心」であり、「人づくり経営」を有志と共に研究し始めた。

令和5年6月30日 田村槙吾

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