モリタ・メソード「チャンネル・チューニング」
ソニーの創業者井深大の「人づくり経営」の傑作の一人が13歳年下の盛田昭夫である。
井深の創った社内ヒーローたちは、奈落を克服して多くの世界初製品を作ったが、その大半は当初売れなかった。なぜなら未知の製品だったからである。それを既知に変えたのは盛田である。
自ら物理を専攻した技術系であったが、井深の大自然の様な人間性に触れ、専門を捨てマーケティングに走った。技術のわかるマーケッターであればこそ、相手の心に沿う説明を繰り返した。「相手との間に溝を掘り、水を流せ」“チャンネル・チューニング”が口癖だった。
CDの発売イベントの時である。「奥さん方、レコードは聴きますか?私も楽しみます。しかし、30分も聴くとお茶を飲みませんか?それはレコードにはわずかですが雑音があり、疲れるからです。このCDは雑音がゼロです。ですから何時間聴いても疲れません」。
高感度のビデオカメラでは「お孫さんはいらっしゃいますか?いらっしゃる。可愛いでしょうね。このカメラは、お孫さんがスヤスヤ眠っている時、電気を点けなくても可愛い寝顔を映すことができるのです」。
またある時、設計者をスキー場に呼んだ。「このビデオカメラはキミの設計かい。すごくいいね。でも一点直して欲しいんだ。指で押すと二ついっぺんに押してしまうんだ」と。見ると、スキーの手袋のまま押しており、「この寒い中で手袋を外せというのかい」とにっこり笑った。
学生にもチャンネル・チューニングをした。ハーバード・ビジネス・スクールでの講演だ。世界の盛田が話すということで講堂は満席となった。しかし、そこに現れた盛田は背を丸め、か細い声で話し出した。
「実は、私はこの大学が嫌いです。そこに学ぶみなさんも好きとは言えません」。その後、「テープレコーダを苦労して開発したが、全く売れない。荷車に乗せて、歩き回り、初めて一台売れた時は涙が出た。みなさんはこの大学で世界最高の経済学を学んでいるが、そのお金は、どうやって手に入れるか、考えたことはありますか」と語気を強めて熱弁し、結果的は万雷の拍手を浴びた。
人ばかりでなく、国に対してもチャンネル・チューニングした。日本製の輸出が増え、欧米は、日本も輸入を増やせと迫る貿易摩擦が世界を揺るがせたことがあった。その時、盛田はいち早く渡米し、米国の菓子や化粧品を買い集め、日本で売る「ソニープラザ」を開業した。
同様に、フランスのレストランブランドを借り、銀座に「マキシム・ド・パリ」を開業した。両国も政府間では厳しい折衝が続いたが、ソニーには笑顔になった。
英国では、ウェールズに近いブリジェンドにテレビ工場を建設し、エリザベス女王も見学、ソニーは歓迎された。こうして、ソニーの駐在員の仕事がしやすくなった。
さらに社会に対しては「学歴無用論」や「メイドインジャパン」、石原慎太郎と共著で「NOと言える日本」を出版し、日本人の自律心を背押しした。晩年、経団連会長の候補になった時、病に倒れた。就任の暁には、全世界の財界にチャンネル・チューニングする野望があったことを側近から聴いた。
令和5年7月 田村槙吾